想いの行く先

何か事件や事故が起こったときにおエライさんや校長先生なんかが出てきて「二度とこのようなことが起きないように・・・云々」というときに感じる違和感は何だろうか?
それは事件や事故に巻き込まれた当事者の事がおもいっきり欠けているからではないだろうか?
「二度とこのようなことが起きないよう」という事自体は決して間違った意識ではないし、当たり前といえば当たり前。
ただ、じゃあ傷ついた当事者たちの気持ちはどうなるんだろうか?
「なぜその意識を私達の子供のときから持っていてくれなかったのか・・・」
「なぜ私達の気持ちに寄り添う事を忘れて、その後の対応ばかりに走るのか・・・」

これは沖縄の問題やいじめや体罰、原発事故後の福島の人たち・・・何にでも言えると思う。
置き去りにされた想いに誰が寄り添うのか?

決定的に僕らは当事者ではない。
その事を忘れてはいけない。
だが彼らのために何かしたいと思うとそのことを忘れがちになってしまうのはなぜなんだ?

彼らのために何かしたいと思う事自体は決して間違った事ではないし、何もしない人たちが大多数の中で、稀な事だと思う。ただそこには必ず当事者ではないことをわかった上で、それでも尚、寄り添おうという想いが必要だと思う。
そうでなければ本当に自己満足や愛の押し売りになってしまうだろう。

と、ここまでは頭の中の話。
これをどう具体的にしていくかを考えなくちゃいけないんだ。

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