雑記

数日前からまるでカウントダウンするように「あの日から2年」特番をちらつけせ、記念碑的な放映をするテレビはもう捨てちまえ、と収まらない気持ちを書いてもしょうがないので。

隣の火事ではなく、あなたの家が火事になって初めてわかる、とはよく言ったもんだけど、
福島の原発事故をきっかけに露呈したこの国の醜さは、翻って僕自身のこととして考えることになった。皮肉だけど。

自分の半径5mを美しくしていく事ばかり求めていった結果、人でも物でも、目の前にあることや物しか見れなくなり、その裏にある、必ずあるはずのそこに至るストーリーをイマジンできなくなって、そのイメージできない人がイメージできない政治家を選び、いまあるようでしかない社会になってしまっているならば、必然的なつながりや、愛の循環は多分生まれない。

「僕とアンタとの距離は絶望的に遠い」
そりゃそうだ。
子供がいる人、いない人、介護する老母、老父がいる人、いない人、結婚してる人してない人・・・数え上げればキリがないほど人の置かれた立場は様々だ。
でもその絶望的に遠い距離感を自覚したなら、それでもなおその人の物語を想像することで、もしかしたら寄り添おうとする眼差しや愛情を持つことができるんじゃないのだろうか。

福島の人達や被災した人達と決定的に当事者ではない自分たちが本当にできることはなんだろう。
すでに頑張っている東北の人達に「がんばろう東北」はないだろう。
「あの日を忘れない」当たり前だ。
言いたい事分かるかな。

清志郎やジョン・レノンが天国でまた歌わなきゃいけないようではダメなんだ。

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