「情熱」っていう言葉からくる印象はあくまで肯定的。なんとなく非の打ち所がなさそう。情熱が否定される事を多くの人が恐れるよね。
「アイツは冷めてる」とか「パッションが足りない」とか結構言われて傷ついた事あるんだよな(笑)。
それはその人の人格とか人生と同義で語られたり、もしくは情熱が全てのことを始めたり、継続したりする原動力と捉えることができるからかもしれないんだけど、本当にそうなのかな・・・?もちろん「情熱」を持って毎日パン焼いてるはずなんだけどもね。
そもそも「情熱」の訳語である「Passion」には受難、(能動に対する)受動、という意味もある。ともすれば足元をすくわれかねない危険なことばでもある。
先日、大学の友人が訪ねてきてくれた。
東京で働く奴は少し道に迷い、疲れていた。
駅に迎えに行った車で掛ける曲は決めていた。
音楽や映画や旅の話、多感な20代前半の多くの時間を共有した数少ない友人。
初めてバックパックを背負い、2人でヒッチハイクをして沖縄や離島をふらついた時から10年経って、それぞれに変化もあり、目の前の事に情熱を注いで猛進してきた。まさに情熱を注いで。そしていま奴は少し道に迷い、疲れていた。僕に出来ることはなんだろうと考え、美味いインドカレーを食べに行った。そして家で鍋をしたり、マーボー豆腐を食ったりした(食ってばっかり)。遅くまで色んな話をした。くだらない話もたくさんしたけど。
元気づけるはずがこっちが色々頂いてしまった気がした。
ありがとう、友人。またインドカレー食いに行こう。