12月12日

マンデラ氏が亡くなったニュースと秘密保護法が成立したニュースが同時にうまく頭に入ってこない状態から1週間ほど経ったけど、未だに後者のほうは想像力をフルに駆使しても納得の行くものが何一つとして見出せない。

闘い続けた一人の男の最期と、闘う前に諦める事に慣れてしまった僕らの国の新たな法律との距離が甚だしく、恥ずかしい思いさえ感じる。

政治も芸術も経済もいま目の前で見えるものから見えないものへのまなざしがなければそれは自己陶酔や単なる暴挙になりかねない。

おたくや引きこもりがよく現代の若者像として引き合いに出されるが、
政治のプロが自分たちの領域だけで専門化し、閉じこもる状態となんら変わりがないことを僕らは知っている。

これは政治の分野に限った事ではないと思うけど、そうやって閉じこもって慣習に従い、他との交流を持たずに「我々」は「我々」としてのみ存在し、他を押さえ込もうとする姿勢は想像力を持ったプロフェッショナルとは言えないと思う。特に行政に携わる者に一番必要な能力は、専門化せずに異なる専門家や市民と見えるものから見えないものを想像し構築していく姿勢じゃないか、と思う。

マンデラ氏は目の前の偏見や差別から見えない自由を掴み取ろうと牢獄の中でも想像力をフルにして闘い続けたのだろう。

一方、想像力の働く人からはとてもまともとは思えない法案を、とても民主主義とは思えない形で成立させてしまった僕らの国はどうだろうか。
そんなこと考えてないでクソして寝た方がいいと思うだろうか。僕はクソを我慢してでも考えた方がいいと思っている。
「お・も・て・な・し」してる場合じゃないんだよ。

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