久しぶりにパザールバザールのラップサンドを食べた。
んまい。相変わらず。いい仕事してます。ごちそーさん。
お知らせ
新着情報・イベントなど
上映会を中止します。
ホームページに告知した後も、
色んな話し合いがあり、
意見交換し議論が交わされ、
この度、「カリーナの林檎上映実行委員会」名義での
上映会は中止する事になりました。
理由は簡潔にいうと、
「私以外のメンバーが映画を嫌いだったから」
です。
少しややこしいのですが、
私たち主催者メンバーになっていた9人は、
「応援しているその人を信じる」
というポリシーがありました。
美味しいパンを作ろうと、頑張っているパンが美味しかろうとなかろうと、
彼らの姿勢をリスペクトする・応援するから買う。
その考え方で、
「信頼する香生里ちゃん(私)の感動した映画を応援する」
とみんなが立ち上がってくれて、
とても大きなフェスティバルのようになりそうでワクワクしていました。
ただ、問題なのはやはり、
この映画が「脱原発」をテーマにしていると言う事です。
この問題は根が深すぎて、どこに落とし穴があるのか正解なのか
分からない問題で、現に今福島県相馬市で善意の元集まったメンバーが
ズタズタに傷つき引き裂かれ、バラバラになってしまっているそうです。
そういうお話を聞く機会があり、
私たちももう一度そのリスクも含め考える事にしました。
その基準は「映画を好きか嫌いか」。
そこがまず全会一致で無いと、このイベントは白紙に戻すべきだと。
ようやく映画を見るということが遅いとも思いますが、
これがイベントの後でなくてよかったと今は思います。
ただ、今回の中止は本当に後ろ向きではなく、
前を向く為の中止で意味のあることだと思っています。
私たちはバラバラになったと言うよりも、
以前より強く理解しあい、協力し合える仲間になったと思います。
この機会に恵まれた事に本当に感謝しています。
ただ、想像もできないほどの強靭で巨大なものに
「脱原発」と言う事は歯向かう事なんだなと思います。
色々本当に時間ばかり掛かって、こんな結果で申し訳ありません。
けれども、私はこの映画でようやくニュースなどで言われている事件・事象が
他人事ではなく自分の事として考える事ができるようになった
のは事実です。
そのきっかけ作りとしてこの映画を見ることが一番いいのではと
思って今まで突っ走ってきましたが、
他のアプローチもあるかもしれないと、
もう一度考え直す良い機会かなと思っています。
重要なのは今回のこの膨大な会議で思いましたが、
各々が傷つく事を恐れずに、
正直に意見を交わして相手の意見を共有すること
だと思いました。
それが、出来る世の中になれば、
絶対もっと良い世の中になると思います!
今後、私一人で出来る形の小さくても温かいつながりの深い会を
持ちたいと思っています。
なので、小さくてもお互いの意見が届く・響き合うような
会をと思っています。
また決まりましたら、告知いたします。
今回の会議詳細も少しずつfacebookにてUPします。
よかったら覗いてみてください。
https://www.facebook.com/ausakakaori
4月8日
4月の予定。
4月19日はバル街です。
ウチは元町に出来たワイナリー「農楽蔵」さんとのコラボで出店です。
今の時期ワインはまだだそうで、自家製シードル、ぶどうジュースなどなど、僕も楽しみです。
そしてその翌日4月20日、21日は池見石油さんプレゼンツ「北欧アンティークと住まい展」に出店させていただきます。北欧のパンってどんなんだろう?と考えさせられ、色々調べました。が、どんなものになるかは当日のお楽しみってことで。
4月になって雪も溶けて、いざ春、と言いたいところだけどまだまだ冷える日もあります。
来冬用の薪も集めていかなきゃいけないし、やることが一気に増えてくる季節でもあります。
そんな中でも楽しむ事を忘れず、冒険し、それが仕事や生活にフィードバックされるような日々であろうと思います。
カリーナの林檎上映会@6月30日(日)ふるる函館
まだ先ですが、もうスグでもあります。
「カリーナの林檎」上映会を6月30日(日)にふるる函館にて開催します。
詳細を少しずつfacebookにてお知らせします。
https://www.facebook.com/jikkouiinkai.karinanoringo
先日今関監督が函館に遥々来ていただいて、
主催メンバーと恒例の会議をしました。
いつも会議で話は立ち戻ってというか、
原点にいつも返るのですが、
「なぜ上映会なのか?」
「なぜチェルノブイリの映画?」
「なぜ今更?」
物凄い考えました。
そしてこれからもずっと考え続けます。
そこにその先に、私には「家族」と暮らしていく事があります。
それは人それぞれ違うもので、
同じである必要は全くなくて、
違うからこそいいのだと思います。
ただ、どう暮らして行きたい・生きて行きたいと
少し立ち止まって考える事は物凄く必要で大事だと思います。
「My Life Is My Message.」
これについて、みんなで考える為の機会になればと思っています。
そんな話をすこしずつfacebookで綴っていきたいと思っています。
是非覗いてみてください。
もちろん、ブログにも書きます。
ジャケ買いという生き方
CDとかレコードとか本とか今はほとんどのモノをネットで買う事が出来る時代です。
そしてそれらの内容は調べれば簡単に分かります。
内容やその詳細情報を事前に調べれば本当に自分が欲してるものかどうかが分かります。
その上で財布と相談してポチっとすれば失敗する事はほぼないでしょう。
東京にいたころレコードを漁ったり古本屋を回ったり、よくしてました。
詳しい先輩に連れられて無理やり欲しくもないCD買わされたりしてました。
でもその先輩の事を信頼してた(少なくとも音楽に関しては)ので損したな~なんてことは一度もありません。
実際そのときはピンと来なかったけど、今、改めて聴くとグッとくるものが多かったりします。
それと同時にジャケ買い、所謂、まったく知らないミュージシャンだけど、面構えで買うって言うのが好きなんです。
中身はもしかしたら全然好みじゃないかもしれない(実際そういうものもあった・・・)けど、ソイツが醸し出す雰囲気を五感をフル活用して感じて手に取る。不思議な事に段々そういう感性って磨かれていくもんです。
その結果、予想してたよりも何倍もいいものに出会えたり、します。
で、なんでそんな話をしたかと言うと、先日書いたイマジンの話と少しリンクするかなと思ったからです。
自分の欲しいモノ、自分の聴きたい音楽だけをダウンロードとか出来ちゃう時代です。
佐野元春さんのモトハルレディオショーで言ってたけど、若者が一ヶ月に音楽に支払う金額って80円らしいです。
それが金額が低いとか高いの話じゃないです。
その現実は誰が生み出したのか。
ミュージシャンが実力不足だったからか。
もちろんそういう人もいたかもしれない。
でも考えなくちゃいけないのは目の前にあるモノを目の前にあるモノとしてただ自分の財布事情や好みというせまーい視野でしか捉える事のできない僕ら側にもあったんじゃないのか?という視点だ、と思えてくるのです。
もちろん知らないミュージシャンのアルバムやライブに汗水流して働いたお金を払うのはリスクがあるかもしれません。でも五感をフル活用して「これはいいもんだ」って感じたら、その先にある音楽文化というものを枯渇させてはならない、ってところまでイメージしたいなと僕は思う。例えまったく知らないミュージシャンであろうとね。
自分の店の話になるけど、うちのドライフルーツやナッツは全てオーガニックなものを取っている。
やっぱり高い。電卓弾くと頭を少し抱える(笑)
でもそれは身体にいいとか健康にいいとか言う前に、それを扱っているその会社の心意気を買っている、と言う事。
いつか書いたかもしれないけど、その会社が無くなっても他に取り扱い店はあるからウチとしては困らないかもしれない。でもそんな心意気のある会社が世の中からなくなってしまう事を考えたときにそれはとても悲しい事だし、大きい事を言えばそんな社会は嫌だなと思う。そしてそのドライフルーツを作っている遥か彼方のイカした農家さんまでイメージは広がるわけだ。
自分の私利私欲、好みに応じた何らかの犠牲(この場合支出や購入)への見返りは想像通りの範疇だけど、そこの枠を超えた何らかの自己犠牲への見返りは想像をはるかに超えていつか必ず返ってくる。ジャケ買いという絶滅寸前の生き方にそのヒントがあるように思えてならない。
雑記
数日前からまるでカウントダウンするように「あの日から2年」特番をちらつけせ、記念碑的な放映をするテレビはもう捨てちまえ、と収まらない気持ちを書いてもしょうがないので。
隣の火事ではなく、あなたの家が火事になって初めてわかる、とはよく言ったもんだけど、
福島の原発事故をきっかけに露呈したこの国の醜さは、翻って僕自身のこととして考えることになった。皮肉だけど。
自分の半径5mを美しくしていく事ばかり求めていった結果、人でも物でも、目の前にあることや物しか見れなくなり、その裏にある、必ずあるはずのそこに至るストーリーをイマジンできなくなって、そのイメージできない人がイメージできない政治家を選び、いまあるようでしかない社会になってしまっているならば、必然的なつながりや、愛の循環は多分生まれない。
「僕とアンタとの距離は絶望的に遠い」
そりゃそうだ。
子供がいる人、いない人、介護する老母、老父がいる人、いない人、結婚してる人してない人・・・数え上げればキリがないほど人の置かれた立場は様々だ。
でもその絶望的に遠い距離感を自覚したなら、それでもなおその人の物語を想像することで、もしかしたら寄り添おうとする眼差しや愛情を持つことができるんじゃないのだろうか。
福島の人達や被災した人達と決定的に当事者ではない自分たちが本当にできることはなんだろう。
すでに頑張っている東北の人達に「がんばろう東北」はないだろう。
「あの日を忘れない」当たり前だ。
言いたい事分かるかな。
清志郎やジョン・レノンが天国でまた歌わなきゃいけないようではダメなんだ。
想いの行く先
何か事件や事故が起こったときにおエライさんや校長先生なんかが出てきて「二度とこのようなことが起きないように・・・云々」というときに感じる違和感は何だろうか?
それは事件や事故に巻き込まれた当事者の事がおもいっきり欠けているからではないだろうか?
「二度とこのようなことが起きないよう」という事自体は決して間違った意識ではないし、当たり前といえば当たり前。
ただ、じゃあ傷ついた当事者たちの気持ちはどうなるんだろうか?
「なぜその意識を私達の子供のときから持っていてくれなかったのか・・・」
「なぜ私達の気持ちに寄り添う事を忘れて、その後の対応ばかりに走るのか・・・」
これは沖縄の問題やいじめや体罰、原発事故後の福島の人たち・・・何にでも言えると思う。
置き去りにされた想いに誰が寄り添うのか?
決定的に僕らは当事者ではない。
その事を忘れてはいけない。
だが彼らのために何かしたいと思うとそのことを忘れがちになってしまうのはなぜなんだ?
彼らのために何かしたいと思う事自体は決して間違った事ではないし、何もしない人たちが大多数の中で、稀な事だと思う。ただそこには必ず当事者ではないことをわかった上で、それでも尚、寄り添おうという想いが必要だと思う。
そうでなければ本当に自己満足や愛の押し売りになってしまうだろう。
と、ここまでは頭の中の話。
これをどう具体的にしていくかを考えなくちゃいけないんだ。
2月末
やったこともないことに挑戦するとき、セオリーなんてないから、とにかく身体で感じながらやるしかない。
その感覚、意外と嫌いじゃないんだけど、終わるころにはどっぷり疲れてるから、帰りの車でラジオからディランが流れてきた時には思わずヴォリュームをあげた。20代最後の年にいい経験させてもらってます。
とにかく今の僕は世の営業メンに頭が上がりませんわい。
高橋 研&近藤 智洋LIVE@ククム
来週と迫ってきました!
おいしいお食事と景色、さらに上質の音楽があれば、
これ以上の贅沢はありません!!
お時間ある方は是非に!
高橋 研&近藤 智洋LIVE@ククム
【日時】 2013.2.6(wed)
【会場】 函館 cafe+B&B「ククム」
函館市根崎町428-1
℡0138-57-8228
【時間】 open18:00/start19:00
【ticket】 ¥3,000(+1 drink¥500)
*会場の「ククム」は分かりづらい場所にあるので、
HPで場所を確認して下さい。
cafe+B&B「ククム」
*チケットメール予約:pan-farm@nifty.com (要名前・枚数・連絡先)
詳細はhttp://panwithin-farm.com/html/news.html
1月20日
大好きな音楽を聴く時間・場所は子供がいる場合、限られてきます。
パン屋なので朝早くから聴いてると子供が起きるし、夜は早くに寝てしまうし。
なので配達の車の中が至極のときだったりする。
今日も色々な人の話を聞いて、足りない頭が痺れてきたので
大好きな音楽でも聴いて少し何も考えないで。