カリーナの林檎上映会@6月30日(日)ふるる函館

まだ先ですが、もうスグでもあります。
「カリーナの林檎」上映会を6月30日(日)にふるる函館にて開催します。

詳細を少しずつfacebookにてお知らせします。
https://www.facebook.com/jikkouiinkai.karinanoringo

先日今関監督が函館に遥々来ていただいて、
主催メンバーと恒例の会議をしました。

いつも会議で話は立ち戻ってというか、
原点にいつも返るのですが、
「なぜ上映会なのか?」
「なぜチェルノブイリの映画?」
「なぜ今更?」

物凄い考えました。
そしてこれからもずっと考え続けます。

そこにその先に、私には「家族」と暮らしていく事があります。
それは人それぞれ違うもので、
同じである必要は全くなくて、
違うからこそいいのだと思います。

ただ、どう暮らして行きたい・生きて行きたいと
少し立ち止まって考える事は物凄く必要で大事だと思います。
「My Life Is My Message.」
これについて、みんなで考える為の機会になればと思っています。
そんな話をすこしずつfacebookで綴っていきたいと思っています。

是非覗いてみてください。
もちろん、ブログにも書きます。

ジャケ買いという生き方

CDとかレコードとか本とか今はほとんどのモノをネットで買う事が出来る時代です。
そしてそれらの内容は調べれば簡単に分かります。
内容やその詳細情報を事前に調べれば本当に自分が欲してるものかどうかが分かります。
その上で財布と相談してポチっとすれば失敗する事はほぼないでしょう。

東京にいたころレコードを漁ったり古本屋を回ったり、よくしてました。
詳しい先輩に連れられて無理やり欲しくもないCD買わされたりしてました。
でもその先輩の事を信頼してた(少なくとも音楽に関しては)ので損したな~なんてことは一度もありません。
実際そのときはピンと来なかったけど、今、改めて聴くとグッとくるものが多かったりします。

それと同時にジャケ買い、所謂、まったく知らないミュージシャンだけど、面構えで買うって言うのが好きなんです。
中身はもしかしたら全然好みじゃないかもしれない(実際そういうものもあった・・・)けど、ソイツが醸し出す雰囲気を五感をフル活用して感じて手に取る。不思議な事に段々そういう感性って磨かれていくもんです。
その結果、予想してたよりも何倍もいいものに出会えたり、します。

で、なんでそんな話をしたかと言うと、先日書いたイマジンの話と少しリンクするかなと思ったからです。
自分の欲しいモノ、自分の聴きたい音楽だけをダウンロードとか出来ちゃう時代です。
佐野元春さんのモトハルレディオショーで言ってたけど、若者が一ヶ月に音楽に支払う金額って80円らしいです。
それが金額が低いとか高いの話じゃないです。
その現実は誰が生み出したのか。

ミュージシャンが実力不足だったからか。
もちろんそういう人もいたかもしれない。
でも考えなくちゃいけないのは目の前にあるモノを目の前にあるモノとしてただ自分の財布事情や好みというせまーい視野でしか捉える事のできない僕ら側にもあったんじゃないのか?という視点だ、と思えてくるのです。

もちろん知らないミュージシャンのアルバムやライブに汗水流して働いたお金を払うのはリスクがあるかもしれません。でも五感をフル活用して「これはいいもんだ」って感じたら、その先にある音楽文化というものを枯渇させてはならない、ってところまでイメージしたいなと僕は思う。例えまったく知らないミュージシャンであろうとね。

自分の店の話になるけど、うちのドライフルーツやナッツは全てオーガニックなものを取っている。
やっぱり高い。電卓弾くと頭を少し抱える(笑)
でもそれは身体にいいとか健康にいいとか言う前に、それを扱っているその会社の心意気を買っている、と言う事。
いつか書いたかもしれないけど、その会社が無くなっても他に取り扱い店はあるからウチとしては困らないかもしれない。でもそんな心意気のある会社が世の中からなくなってしまう事を考えたときにそれはとても悲しい事だし、大きい事を言えばそんな社会は嫌だなと思う。そしてそのドライフルーツを作っている遥か彼方のイカした農家さんまでイメージは広がるわけだ。

自分の私利私欲、好みに応じた何らかの犠牲(この場合支出や購入)への見返りは想像通りの範疇だけど、そこの枠を超えた何らかの自己犠牲への見返りは想像をはるかに超えていつか必ず返ってくる。ジャケ買いという絶滅寸前の生き方にそのヒントがあるように思えてならない。

雑記

数日前からまるでカウントダウンするように「あの日から2年」特番をちらつけせ、記念碑的な放映をするテレビはもう捨てちまえ、と収まらない気持ちを書いてもしょうがないので。

隣の火事ではなく、あなたの家が火事になって初めてわかる、とはよく言ったもんだけど、
福島の原発事故をきっかけに露呈したこの国の醜さは、翻って僕自身のこととして考えることになった。皮肉だけど。

自分の半径5mを美しくしていく事ばかり求めていった結果、人でも物でも、目の前にあることや物しか見れなくなり、その裏にある、必ずあるはずのそこに至るストーリーをイマジンできなくなって、そのイメージできない人がイメージできない政治家を選び、いまあるようでしかない社会になってしまっているならば、必然的なつながりや、愛の循環は多分生まれない。

「僕とアンタとの距離は絶望的に遠い」
そりゃそうだ。
子供がいる人、いない人、介護する老母、老父がいる人、いない人、結婚してる人してない人・・・数え上げればキリがないほど人の置かれた立場は様々だ。
でもその絶望的に遠い距離感を自覚したなら、それでもなおその人の物語を想像することで、もしかしたら寄り添おうとする眼差しや愛情を持つことができるんじゃないのだろうか。

福島の人達や被災した人達と決定的に当事者ではない自分たちが本当にできることはなんだろう。
すでに頑張っている東北の人達に「がんばろう東北」はないだろう。
「あの日を忘れない」当たり前だ。
言いたい事分かるかな。

清志郎やジョン・レノンが天国でまた歌わなきゃいけないようではダメなんだ。

きれいな色のズボン

きれいな色のズボンを買いました。
完全なる衝動買いです。
そして現実逃避ですが、それを許してくれた事が
すごく嬉しかったです。
このズボンが履き続けれるように、
色々気を引き締めていこうと思っています。

全く関係ない話。

ちなみに、函館のvillegeというお店で。
4店舗を3月中に統合して、1店舗にして新規OPENするそう。
松風町電停前の空きビルを大きく使ってとのこと。
今は閉店セールを開催中らしいので、函館の皆様是非に。
春色のパンツを(^^)

想いの行く先

何か事件や事故が起こったときにおエライさんや校長先生なんかが出てきて「二度とこのようなことが起きないように・・・云々」というときに感じる違和感は何だろうか?
それは事件や事故に巻き込まれた当事者の事がおもいっきり欠けているからではないだろうか?
「二度とこのようなことが起きないよう」という事自体は決して間違った意識ではないし、当たり前といえば当たり前。
ただ、じゃあ傷ついた当事者たちの気持ちはどうなるんだろうか?
「なぜその意識を私達の子供のときから持っていてくれなかったのか・・・」
「なぜ私達の気持ちに寄り添う事を忘れて、その後の対応ばかりに走るのか・・・」

これは沖縄の問題やいじめや体罰、原発事故後の福島の人たち・・・何にでも言えると思う。
置き去りにされた想いに誰が寄り添うのか?

決定的に僕らは当事者ではない。
その事を忘れてはいけない。
だが彼らのために何かしたいと思うとそのことを忘れがちになってしまうのはなぜなんだ?

彼らのために何かしたいと思う事自体は決して間違った事ではないし、何もしない人たちが大多数の中で、稀な事だと思う。ただそこには必ず当事者ではないことをわかった上で、それでも尚、寄り添おうという想いが必要だと思う。
そうでなければ本当に自己満足や愛の押し売りになってしまうだろう。

と、ここまでは頭の中の話。
これをどう具体的にしていくかを考えなくちゃいけないんだ。

2月末

やったこともないことに挑戦するとき、セオリーなんてないから、とにかく身体で感じながらやるしかない。
その感覚、意外と嫌いじゃないんだけど、終わるころにはどっぷり疲れてるから、帰りの車でラジオからディランが流れてきた時には思わずヴォリュームをあげた。20代最後の年にいい経験させてもらってます。
とにかく今の僕は世の営業メンに頭が上がりませんわい。

栗城史多という男

登山家 栗城史多さん
「見えない山を登っている全ての人達へ」
 
「冒険の世界だけが特別な世界ではない。人は誰もが冒険し、見えない山を登っている。
見えない山を登っている全ての人達と冒険を共有し、夢を否定しないで自分の中にあるエベレストに一歩踏み出す人を増やすこと。それが、僕の冒険であり、自分の山です。」 栗城史多

北海道今金町出身のイカれた(ほめてます)男の言葉です。グッと来たので思わず紹介しました。
詳しくはリンクhttp://kurikiyama.jp/を貼っておくので勝手に見て欲しいのですが、
彼は今、凍傷による指の切断という山と闘っています。
それでもあくまで前向きに捉え、エベレストのアタックを試みた事を後悔していません。
少しでも可能性があれば諦める必要もありません、とも彼は言っています。

日々の中で小さな諦めを繰り返すうちに諦めるのが容易くなってしまい、自分が本当にやりたいことや本当に思っていることを押しやって生活していると、栗城さんのような人をとても遠い存在のように感じてしまいがちです。
でもそれはきっと彼の本意ではないでしょう。誰もがエベレストに挑戦できるわけじゃない、誰もがサッカー選手になれるわけでもない、日常をコツコツ生きている人がほとんどなわけで。でもその日常のなかででさえ「日々なる挑戦」は幾多もあると思う。それを登るか、登る前に諦めるか。

彼の言う、自分の山に一歩踏み出す人を増やすこと。
これってある意味、責任ある大人の仕事だと思います。

PS:明日、講演されるそうですよ!行ける方は是非!!http://kurikiyama.jp/news/detail.html?i=538

                  

高橋 研&近藤 智洋LIVE@ククム

高橋 研&近藤 智洋LIVE@ククム

来週と迫ってきました!
おいしいお食事と景色、さらに上質の音楽があれば、
これ以上の贅沢はありません!!
お時間ある方は是非に!

高橋 研&近藤 智洋LIVE@ククム
【日時】 2013.2.6(wed)
【会場】 函館 cafe+B&B「ククム」
     函館市根崎町428-1
     ℡0138-57-8228
【時間】 open18:00/start19:00
【ticket】 ¥3,000(+1 drink¥500)

*会場の「ククム」は分かりづらい場所にあるので、
HPで場所を確認して下さい。
cafe+B&B「ククム」

*チケットメール予約:pan-farm@nifty.com (要名前・枚数・連絡先)
詳細はhttp://panwithin-farm.com/html/news.html

1月24日

函館市長とミーティング

さて、本日は仲間7人と市長にお会いしてきました。
15分の予定の話し合い、でも気づけば30分ぐらい経ってましたかね、
市長も仰ってましたが、「私一人で頑張ってもどうにかなる問題じゃない」
まさにそういうことだと思う。

地震があったから、津波が想定外だったから、建屋が古かったから・・・
色々な理由付けをして国民一人ひとりは本当に責任がなかったか・・・?
東電が悪い、もちろんそうだと思う。
金でズブズブにされた自治体が悪い、それもあるだろう。

でも、それを、声を上げず(心の中では反対していても)
容認してきたのはあなた(私でもある)じゃないのか。
声を上げてきた数少ない人達を「あれは特殊な人達」でくくって区別して、
「彼らがやってるから私達は何もしなくて大丈夫。毎日忙しいし・・・」
と安心してはいなかったか。

そういう危機感を行政の立場にいる市長が僕達に語ってくれたという事は感じるところが多い。
と同時に下火になりつつある流れを危惧し、情熱を循環させる重要性をあらためて痛感した。

とにかく今回ある種の緊張感を持って、
市長との面会に向かって時間のない中一緒に考え、
集まってくれたメンバーに感謝を。
そしてこれからなんだよね。

1月20日

大好きな音楽を聴く時間・場所は子供がいる場合、限られてきます。
パン屋なので朝早くから聴いてると子供が起きるし、夜は早くに寝てしまうし。
なので配達の車の中が至極のときだったりする。

今日も色々な人の話を聞いて、足りない頭が痺れてきたので
大好きな音楽でも聴いて少し何も考えないで。